私は世間一般的に言う軽はずみな「社会人」という言葉が嫌いだ。
私がちょうど大学の卒業式を迎え、仕事をはじめたころ同級生と飲みに出かけたときの話。
他愛もない話をしているなかで同級生が
「俺らも社会人になったんだな~」と、呟いたことがある。
その何気ない一言に私は思わず、声を荒げた。
なんのことかさっぱり分からない同級生を見て、我に返るとともに一抹の寂しさが胸に残ったことを覚えている。
なぜ私がそんなに憤りを感じたか、
それは大学を卒業して社会人になったという発言が、大学以前の自分は社会の一員ではなかったと言っているようなものではないか、と思えるからだ。
大学以前の彼も間違いなく社会の一員であり、学生を卒業することによって社会人になったというのは、それまでの自分を取り巻いていた人間関係や社会構図に目を向けれていないということになりはしないのか。
そして、それはきっと悲しいことだと思う。
さて、ここでなぜタイトルが「空を見上げる赤ん坊」なのかということだが、
先の「社会人」という言葉を考えるときに何歳からが社会の一員なのかというのを考えてみた。
私の結論は、生まれた瞬間からということである。
人間の赤ん坊は他の哺乳類と違い、あえて弱点の腹を上にし、仰向けで何もすることができない。
このため、赤ん坊は誰かが手を掛けないと生きていけないということでもあり、
仰向けでいることが赤ん坊から周囲の人間に対して関係性を求めているアプローチであり、人間が社会性の高い動物であるからこその本能だと思わせてくれる行動だと考える。
仰向けの赤ん坊の周りには赤ん坊を中心にした社会、人間関係が形成されている、という訳だ。
つまるところ、人間は生まれたときから社会の一員なのだ。
子どもから年配の方々まで全員が社会人なのだということ。
真砂という地区の昼間は、先の同級生が言った「仕事をしている社会人」に当てはまる年齢層の人間はごく少数である。
子どもと年配の方々が昼間の真砂社会を形成していると言っても良い。
幼稚園児がおじいちゃん、おばあちゃんに挨拶をし、時には家にまで遊びに行って「お元気ですか」と訪ね歩く。
小学生が元気に遊びまわれば、声をかけ怪我をせんように遊ぶように注意し、時には親のように叱る。
真砂には中学校までしかないため、中学生になればその卒業をみんなでお祝いし見送ってあげる。
祭りや催しごとがあれば、その主役はいつも子どもや年配の方々だ。
真砂に来て、その光景を見たとき社会がここにあると感じたことを覚えている。
山奥の小さな小さな社会。
恐らくみんな社会という言葉すら自覚していないのに自分の役割を自ずと務めている。
子どもや年配の方々にしかできない社会の役割が必ず存在する。
もちろん私たち若者だってそうだ。
どこか社会人という言葉に気負いし過ぎてはいないだろうか?
その言葉の響きのかっこよさに取りつかれていないだろうか?
「無自覚に社会の一員だったということを卒業によって気づけた。」
どうかそう気付いてもらいたいと私は同年代の友たちに真砂から語り続ける。
追記:この「社会人とはなにか?」という問いかけは、中学の卒業の時に担任の先生から聞いた言葉です。先生は「皆さんはすでにもう社会人で、卒業したから社会人になるわけではなくずっと社会人である。」という言葉の受け売りなのです(笑)。