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松風世塵を隔つ

2018.07.16

情熱人として、益田にもどり

真砂にくるようになって半年ほどが経つ。

半年前、京都で哲学を学んでいたことを忘れそうなほどに

今の環境になじんでいる実感が湧いている。

 

真砂に来てから変わったことは、

風景を見ながら哲学をするようになったことだ。

哲学といっても別段難しいことをしているわけではない。

基本的には、ものすごく単純な疑問について思索している。

 

たとえば、人は何故言葉で意思疎通をするのか

たとえば、神様は何故必要とされるのか

たとえば、伝統は何をもって伝統となるのか

 

などなど、人間とや文化、生活、その他もろもろのことが多い。

 

京都にいたころは部屋の中で、本を睨みつけながら

ああでもない、こうでもないとそういった思索を巡らせることが多かったのだ。

それは、まるで自分の中にどんどん潜りこんで、視野が狭くなる危険も併せ持つ。

それが悪いことではないとは思う。

しかし、私の問いに対する答えのきっかけは意外と身近にあったりもする。

 

風景を見ながら哲学するとそういった思いもかけない

そのきっかけに気づくことが多々ある。

 

自然は動かず、ただ平然とそこに在る。

雄大で、奔放で、危うさを併せ持つ。

人間はそんな自然にどこか尊敬を抱き、親愛を抱き、心寄せる。

これがすべての答えになるわけではないが、

何かが見えそうで、掴めそうな予感がするのだ。

 

私は今日も、自然に問われ、そして問いかける。

こんな日常は真砂だからこそのものなのかも知れない、と思いながら—

 

 

 

【松風隔世塵(しょうふうせじんをへだつ】

今回、恐れ多くもテーマにあげさせていただきました。

茶道の掛け軸などでも用いられる非常にありがたい禅語で、茶道の境地の一つでもあります。

この「松風」とは、茶を沸かすときの釜のシュンシュンと鳴く音のことを指しています。

「世塵」とは、世の中の煩わしいことを指し、

 

釜の鳴く音が(一椀の茶が)、世の中の煩わしいことと隔てさせてくれる。

 

という意味になります。

ここでは、真砂の自然や豆腐を煮る釜が余裕のない自分と隔てさせてくれる、

という感じの意味で選ばせていただきまた。